福 聚 会


福聚会の由来・沿革

1. 由来
芦山観世音菩薩像の建立されている当山は古くから仏縁の極めて深い聖山で、府中時代からの鎮要な山であった。すでに天平の御代に泰澄大師が古跡観音谷に七堂伽藍の堂宇を建立され、また常済大師開眼の霊地でもあります。
その後、応永3年(1396年)興禅寺開祖不見明見禅師(郷里、長州萩)が唐土より帰朝後、諸国巡錫の途次、当山の山容が唐土の芦山に酷似しているので入山、一堂を創建し、郷里の長州および唐土の芦山を慕って寺号を長芦山興禅寺と号せられた。山もまた、長芦山、略称芦山と称し守護神を白山妙理大権現として、今なお鎮座されている。
なお、越前国主朝倉義景公は深く禅師に帰依され、菩提のため当山を寺領として献ぜられた。
この仏縁の深い聖山の一部を、山本甚右衛門翁が興禅寺より買受け、武生町(現越前市)に寄贈せられたが、その頂上近くに大正14年10月、国家安泰、衆民幸福を祈願し福聚会一同により青銅の観世音仏を奉建し、御腹篭仏(はらごもりぶつ)を観世音仏腹内に安置のうえ、開眼式が厳修された。
この腹篭仏は、インド政府より総理大臣大隈重信侯に献ぜられた仏天印度釈尊御墳墓内御出土の仏地根本の秘宝尊仏であり、侯は親交のあった堀内信水陸軍中将に譲られ、久しく信州姥捨山観音堂に安置されていた。
その後、堀内将軍と昵懇であった山本甚右衛門翁が、観世音仏を御腹篭仏にと懇請し、福聚会に賜わるという仏妙端縁摩訶不思議な仏縁によって、当山に来臨されたものです。

観音像(青銅製)創建記念写真(大正14年)

2. 沿革
大正13年 9月 山本甚右衛門の発起により会員60名をもって福聚会が創立される。
大正14年10月 初代会長山本甚右衛門と発起人により、青銅の観音像が村国山芦山公園中腹高台500坪に関東大震災を機に国家安泰と衆民幸福を祈願し創建され、開眼大法要が厳修される。芦山観音と称する。
昭和16年12月 第二次世界大戦勃発。青銅製の芦山観音像は国家緊急のため供出のやむなきに至る。以来13年は台座のみを残す。
昭和29年10月 会員83名の奉賛により、花崗岩の芦山観音像が再建され、開眼大法要が厳修される。
昭和57年 5月 宗教法人として福井県知事の認可を得る。会長に山本晨一朗が就任。
平成 4年 5月 高齢者が市内から芦山観音を拝める場所を提供するため、山甚ビル6階に、福聚会の礼拝堂、須達山華厳院を創設する。十一面観音を祀り開眼大法要が厳修される。国府観音と称する。
越前市内を流れる日野川河川敷より見た『芦山観音像』